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宮崎城(越中国)

(みやざきじょう)

歴史の舞台となった山城

宮崎城は、富山県下新川郡朝日町に位置する山城で、標高249メートルの城山に築かれました。越中国と越後国の国境近く、交通の要衝に位置しており、古くから軍事的に重要な役割を果たしてきました。別名を境城とも呼ばれ、日向国の宮崎城と区別するため「越中宮崎城」とも称されます。

城の成り立ちと歴史

宮崎城の起源は、平安時代末期の寿永2年(1183年)とされ、木曽義仲が越中へ進軍した際、地元豪族である宮崎太郎とともに北陸宮を迎え入れたと伝えられています。御所を設けて拠点としたとされますが、当時から城であった確証はありません。

しかし、承久3年(1221年)の承久の乱では確実に城が存在しており、北条朝時率いる幕府軍に攻め落とされました。その後も国境に位置するため、南北朝時代戦国時代にはたびたび争奪戦の舞台となります。上杉氏、椎名氏、武田氏、織田氏、佐々成政らの勢力が攻防を繰り広げました。

天正12年(1584年)、上杉景勝の攻撃を受けて城兵300人中わずか27人が生き残る激戦の末、宮崎城は開城。その後、前田利長が新川郡を支配し、城は役目を終え廃城となりました。

遺構と見どころ

現在、宮崎城跡は城山公園として整備されており、多くの遺構が残されています。本丸、二の丸、三の丸の跡には石垣土塁が見られ、かつての壮大な構えを感じさせます。大堀切、土橋、空堀、外廓なども現存しており、城郭構造の貴重な資料となっています。

また、「北陸宮御墳墓」や「明治天皇御小休所址」の石碑なども設けられ、歴史を今に伝えています。城山からの眺望は素晴らしく、日本海や能登半島、黒部川扇状地を一望できます。

宮崎城跡の構造と配置

宮崎城は、台状の山容を活かし、標高248メートルの山頂から山腹にかけて段曲輪(だんくるわ)が連なっています。城の北端は深さ20メートルにおよぶ巨大堀切により尾根を断ち、搦手(からめて)と呼ばれる裏門方面を守っていました。南の鷲野平大手(おおて)とされ、城の正面口から二の丸へと繋がる複雑な防御線が敷かれていました。

さらに、城の南西には御窪尾根が延び、削平や削崖が施された複数の曲輪(くるわ)が構築されています。城の東側には鬼門封じとされる曲輪群が配置され、防御を固めていました。

歴史資料と保護活動

宮崎城についての記録は江戸時代の『三州志』や『越中古城記』『新川郡書上申帳』などに見られます。また、昭和7年の『富山県史蹟名勝天然記念物調査会報告』にも記述があり、長年にわたり研究が続けられています。県内最古の山城として、地域史において極めて重要な位置を占めています。

そのため、城跡の保存や調査も進められており、富山県指定史跡として文化的価値が認められています。

城山公園と観光情報

城山公園は朝日県立自然公園内にあり、標高248mの山頂に位置します。ここからは日本海や親不知、富山湾、能登半島などの雄大な自然を一望できます。城跡には無線アンテナが設置され、現在も地域のランドマークとなっています。

また、春には「とやま桜の名所70選」にも選ばれたサトザクラが咲き誇り、八重桜が海を背景に美しい景観を作り出します。ヤマザクラやオクチョウジザクラも園内に点在しており、春の訪れを感じられる人気スポットです。

アクセス情報

まとめ

宮崎城は、越中・越後の国境を守る重要な拠点として、古代から戦国時代にかけて数多くの戦いの舞台となりました。現在ではその壮麗な歴史を今に伝える城跡として、多くの観光客が訪れるスポットです。歴史ファンや自然を楽しみたい方にとっても、訪れる価値のある名所といえるでしょう。

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名称
宮崎城(越中国)
(みやざきじょう)

黒部・宇奈月

富山県